【雑談】超就職氷河期男子が這い上がって幸せに暮らしている話~高等教育編 その壱~

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前回の続きです。前回分がまだの方は前回分からどうぞ。

高等教育時代の話 その壱

ここでは、高校と大学のときの話をしようと思います。義務教育が終了し、まったく環境が変わったこと、バブル崩壊と迫りくる就職氷河期の時期に当たります。

※途中まで書いて、高校時代でもかなりのボリュームになることが予測されたため、高校時代でいったん区切ります。

高校時代(1993年~1996年)

社会的な環境

ja.wikipedia.org

自分が高校に在学していた時期は、Wikipediaに書かれているバブル崩壊の時期とちょうど重なります。景気後退が本格化し始め、華やかなバブル景気の面影がすっかりなくなっていく時期でもあります。小学校中学校のときのような派手でちょっとやりすぎなんじゃ?というようなテレビ番組も徐々に減ってきた印象をもっています。

Wikiにもあるように「貸し渋り」「貸し剥がし」というおどろおどろしい言葉が出てきました。それまでは銀行もどんどん金を貸していたのですが、急に金を貸さなくなったり、無理やりにでも返済を迫るようになりました。前回にも書きましたように、実家がちょうど数年前にお店の土地を買い、返済ローンを組んだばかりの頃です。さすがにそこまで厳しい取り立てはありませんでしたが、返済に苦労しているのがありありとわかる時期でした。

リストラという言葉が出始めたのもこのころです。バブル崩壊後、経営再建目的で人員の削減が始まりました。いまではすっかり定着した言葉ですが、本来の意味とはだいぶかけ離れたイメージで使われています。

自分は使わなかったのですが、ポケベルがこのころに大流行りになりました。低価格化による普及が始まったのが1990年代に入ってから、特に1992年あたりから流行が始まりました。うちの兄もポケベルをやっていましたね。携帯電話が一般に普及していない時期、自宅の電話か公衆電話くらいしか手軽な連絡手段がなかったころですから、かなりのインパクトだったと思います。

ストリートファイター2がゲーセンで大人気になったのもこの時期ですね。ゲームセンターでの対戦がものすごく盛り上がっていた記憶があります。当時の同級生も何人か、ゲーセンに入り浸っていました。家庭用ゲーム機よりもゲーセンでの対戦ゲームの方が盛り上がっていたような印象をもっているのですが、たまたま自分の周りにゲーセン通いしている人が多かったからかもしれません。

高校の後半、1995年には新世紀エヴァンゲリオンの放送がテレビ東京系で始まっています。仙台ではテレビ東京系がリアルタイムで見られなかったので、自分がこのアニメを実際に見るのは大学に入ってからです。が、このアニメのインパクトはものすごく大きかったように記憶しています。

そういえばオウム真理教の地下鉄サリン事件って1995年だったんですね。そうだそうだ。高校の卒業アルバムで悪ふざけして傘とビニール袋をもって写ってたのがいたっけな。

インターネットが実用化されたのもこの時期ですが、実際に一般に普及するまではもう少し時間が必要でした。

自分が高校生の頃は、このようにバブル崩壊後の景気後退で日本全体が意気消沈していく中、その一方で新しいカルチャーが芽吹き始めた時期でもあったと思っています。見えている範囲がややオタク趣味に偏っているのは、自分が高校時代、オタク趣味にどっぷり浸かっていたからです。特に高校2年のときがピークだったように思います。その話はあとで出てきます。

家庭的な環境

すでに述べたように、バブル景気の末期、おそらく土地がもっとも高かったであろう時期に、両親はお店の土地を買いました。その直後、バブルが崩壊し土地の値段が一気に下がっています。しかし、購入金額はバブル時期のものであったため、また景気後退によりお店のお客さんがどんどん減っていっている時期にも重なっており、ローンの返済が厳しい状態なのは自分の目からみても明らかでした。母はすでにパート勤めを始めており、早朝の3時前後に出かけていって9時ころにいったん帰宅、軽く家事を済ませてお店に出かける、という生活を続けていました。

バブル崩壊はお店の収益に甚大な影響を与えました。前回書いたように、実家は小さなラーメン屋です。周囲にいくつかの会社と結婚式場、車屋が複数あったため、そこからのお昼のお客さんや出前で商売が成り立っていました。しかし、バブル崩壊に伴って倒産した会社もあり、客足も出前の数も大幅に減りました。本当は父もアルバイトをするつもりでいたようなのですが、お店の営業に影響のない時間帯のものがなかなか見つからなかったようで、結局は母のパートが収入の柱の一つとならざるを得ない状況でした。

自分と3歳離れている兄は大学受験に失敗し、予備校生活に突入していました。兄は結局二浪、最終的には文系から理系に転向し、志望校も県外から県内に変更して合格しました。自分が高校3年、まさに受験の年に、兄は大学1年になったわけです。予備校は決して安くないですし、丸まる二年間通わせたのはけっこうな負担だったのじゃないかと思っていますが、実際の家計がどうだったかまでは把握していません。ただ、家のお金をかなりの部分、兄の予備校に使ったのではないかと推測しています。

このように、家計が苦しい状態なのは明らかでしたが、自分が入ったのは県立の高校です。記憶が定かでないのですが、年間の学費がたしか数万円だったかと記憶しています。兄も同じ高校だったので、両親としては家計への影響は軽微であると判断したのだと思います。*1ちなみにうちの高校は修学旅行がなかったので、そのための積立金はそもそも存在しませんでした。*2一応、私立の高校も受験し合格していたのですが、おそらく学費を払うのは無理だったんじゃないかといま振り返ると思います。

高校の環境

ja.wikipedia.org

自分が在学していたのは宮城県仙台第一高等学校です。卒業生で有名どころだと井上ひさし岩井俊二あたりでしょうか。詳しくはWikiを見てください。

いわゆる「ナンバースクール」と言われる学校で、入学難易度、進学実績ともに高い高校です。首都圏の方からは想像がつかないと思いますが、東北では一般的に公立高校の方が私立高校よりも進学率が高い傾向にあります。「一高」「二高」「一女」「二女」*3というと、宮城県の高校ではトップクラスの進学校として十分認識されており、これらの高校への入学がひとつのステータスにもなります。

父は中卒、母は商業高校卒でした。なので、進学校としての高校というのがどんなものか、想像がつかなかったようです。確かにトップクラスの進学校という認識は間違っていないのですが、一高は自主自立と自由を重んじる高校であり、かなり"フリーダム"な学校でした。いまでもたまにネタにしているのですが、

  • 唯一の校則が「校舎内での下駄禁止」

なんだそれは、という話で。*4要するに「それなりに厳しい高校受験を乗り越えてきた、それなりに頭の良い男子が放牧されている状態」な学校だったわけです。けれども、それで学校が荒れていたかというとそんなことは一切ありませんでした。暴力沙汰は自分が知っている範囲では一度もありませんでしたし、在校生が事件を起こしたとか、そういうのもありませんでした。中学校在学中には確か2回、警察沙汰があったと記憶しています。ここが、あらゆる家庭環境の生徒がミックスされた小学校、中学校とは決定的に異なるところです。校則をそこまで厳格に運用する必要がなかったのは主にこのあたりに理由があったのかもしれません。一般常識レベルの物事はいちいちいわんでもわかるし、それを守ることもできる。放牧された状態であっても、そのあたりの線引きができるあたりが、ただ自由である状態とは明らかに異なる状況を作り出したのだと思います。

トップクラスの進学校に合格するくらいですから、経済的に余裕のある、あるいは進学に理解のある家庭の生まれが多いです。もちろん自分のように家計が苦しい家庭の出もいたにはいましたが、全体としてはごく少数で、おそらく平均以上の年収のある家庭がほとんどだったのだと思っています。中にはこちらが引くくらいの裕福な家庭もあって、遊びにいくときは親が数万円ぽんと渡してくれる、大学合格のお祝いに家を買ってもらった、なんていう同級生もいました。さすがにそれは例外的ですが、バブル崩壊後の不況下であってもそれだけお金を出せる人たちがいる、という事実も目の当たりにしました。

今から改めて振り返ると、高校進学の時点で「これまで自分が属していた社会階層とは明らかに異なる階層」が存在し、部分的にではあれ、自分が両親とは異なる社会階層に属し始めるようになったのではないかな、と感じます。

小学、中学レベルで観測できる範囲の社会というのは極めて狭いものです。自分の家庭環境と、学校で出会うあるいは付き合いのある人たちから見える社会がほぼすべてです。よく「自分の交友関係に含まれる人は自分の社会的階層とおおよそ合致する」といったことが言われますが、小中学校まではまさにそうでした。高校進学を契機に、自分の交友範囲が大きく変わり、同時に見えてくる世界も変わったのは、まぎれもない事実です。

高校の勉強

学生の本文はやはり勉強です。進学校ですから、とても厳しい・・・と思いきや、「自主自律」を重んじる高校ですから、かなり放任主義です。自分たちから積極的に学んでいけば先生たちもしっかり応えてくれます。が、ただ授業にでて教わっているだけでは全く足りません。特に東大を狙っていた数人の同級生は授業とは別建てで独自に勉強していました。

私立の進学校、さらにその中の特別進学クラスにいった同級生たちは「毎日夕方6時くらいまでみっちり授業がある、部活なんてやってない」という生活だったようです。じゃあ、彼ら彼女らが上位の大学にいけたか、というと答えはNoで。学校から強制される勉強と自ら進んでやる勉強とはやはり違いがあるのかな、と今振り返ってみると思います。

内容が高度だったかどうかはほかの高校のカリキュラムを知らないのでなんともいえません。ただ、学校で学ぶことだけでは上位の大学を狙うにはほぼ足りず、自ら進んで勉強しないといけない、というのは十分感じました。「自分から進んで勉強する」「必要な知識を自分で選択し自分でとりに行く」という姿勢はこのころから培われていた可能性があります。中学時点では「勉強が苦ではない」レベルで、進んでやるかといわれると微妙な線でしたから。

高校の勉強 苦手だったもの

数学、化学でかなり苦戦しました。特に数学が苦手で、高校一年の時点ですでに危険な状態でした。たしか代数幾何あたりから「もはやなにをやっているのかわからない」状態に陥っていたと記憶しています。

高校の数学が苦手だったのは

  • 覚えるべき定理や公式の多さ
  • 定理や公式を使うタイミングの見極め
  • 公式を使う際の条件分け

辺りがうまくできなかったところに要因があると思っています。今ならできるか、といわれるとなんとも言えないところですが、中学数学のやり方から格段に難しくなったと感じました。夏休みの宿題の問題集、答えをみても何をやっているのかわからないレベルでしたから。

しかし、大学受験の時点で数学の苦手は克服しました。というのも、同級生から教わった参考書が非常によくできていたから。「数学が苦手な受験生を、数学が得点源になる受験生にする」がコンセプトの参考書です。そこで主に述べられていたのは

  • 問題のタイプにより解答のパターンはだいたい決まっている
  • たくさんの公式を覚えるよりも、少数の公式から他の公式を導く方法を知ることが重要

の2点です。これで文系クラスの数学はだいぶ楽になりました。この参考書に出会えなかったら、受験でだいぶ苦戦したのじゃないかと思います。

今なら化学は"比較的得意な方"なのですが、高校の時は赤点連発でした。化学でつまづいたのはmolです。molの概念がさっぱり理解できず、簡単な計算もできませんでした。今なら「原子または分子がアヴォガドロ数個分ある状態を1molと定義する」と言えるのですが。。。おそらく「単位」という概念そのものの理解が不十分だったのだと思います。*5

高校の勉強 好き/得意だったもの

一方で好き/得意だったのは世界史と英語です。

世界史は当時の担当教官の教え方がものすごく下手でした。下手といっても「受験用の勉強には不向き」という意味で、余計な横道にそれて面白エピソードをあれやこれや話してくれる、という「歴史に興味を持たせる」点においては良い教官だったと思います。世界史が得意になったのは、「この先生の世界史では受験には耐えられない」と感じて買った参考書が非常に面白かったから。受験のための知識はもちろんですが、歴史的な事実の関連性を明らかにし、それらがどのように後々に影響したのか、をわかりやすく解説してありました。そのおかげで「歴史の見方」を学ぶことができ、今に生きていると感じています。

ちなみに、父が詳しいのは日本史です。しかし、上記のように「歴史的な事実の関連性」という観点からすると、世界史における日本のかかわり方も実は重要になってきます。日本史はあくまでも「日本」という国の通史*6を学ぶのに対し、世界史では様々な国や地域の歴史を学びます。つまり、歴史に対する観点がそもそも異なります。高校生にこんなことをいっても多分意味不明なのですが、高校時点からすでに「歴史に対する異なる視点」をすでに学んでいたのだ、と考えるとすごいことだなとおもうわけです。

今振り返るとほんとに世界史はものすごく勉強しました。勉強した、というより好きだったんだろうな。出来事の関連性を見つけ、その前後関係を把握し、なぜその出来事が起こったのかを考えていく、という作業が楽しかった。こういった「ものの見方の素地」は簡単には身につくものではなくって、だからこそ、高校の時期からそれをトレーニングできるものに興味をもてたことが、今に活きているんじゃないかと思います。

英語に関しては、高校レベルの英語はほぼ「丸暗記」でいけると感じました。単語、イディオム、構文等々、中学英語に比べてはるかに複雑なものが登場しますが、それらもだいたい丸暗記でいけました。若かったからでしょうね。参考書3冊分くらいの単語や構文はほぼ丸暗記しました。今じゃさっぱり覚えてないですが。。。*7

高校のときに興味をもったもの

前回、中学のころに「小説家になりたい」という夢をもったことを書きました。高校2年の前半で興味の対象が小説から絵に変わるのですが、その過程で言語学に興味を持つようになりました。

「小説家になりたい」という夢はそのまま「文章が上手になりたい」という実用的な欲求に結びつきます。でもどうやったら文章が上手になるのかわからない。ただやみくもに文章を書いてみてもうまくなる感じがしない。いろんな小説雑誌を読み、作家のインタビューを読みました。小説家になれるヒントがどこかにあるのじゃなかろうか、と必死な思いでした。そんななかで出会ったのが「修辞学」というものです。実際にはWikipediaにあるように演説のための技術なのですが、どこで勘違いしたのか「文章が上手になる技術」と勘違いしました。じゃあ修辞学とやらを学べば文章が上手になるに違いない、それできっと小説家になれる!と短絡な高校生は考えたわけです。そのときに出会った本がこれ。

レトリックの記号論 (講談社学術文庫)

レトリックの記号論 (講談社学術文庫)

今にして思えば、なんでここで記号論に手を出したかね、と言わざるを得ないのですが、当時としては考えうる最良の方法でした。が、中身を見ると別に文章が上手になるようなことが描かれているわけでは決してなく。むしろ「記号としての言語」について述べられており落胆する一方、「言語とは記号にすぎない」という考え方、いわゆるソシュールシニフィエとシニフィアンの考え方に触れることになりました。詳細はWikipediaを読んでいただくとして、この考え方に触れたことが、大学で言語、哲学、認知科学に興味を持つようになっていく大きな要因となりました。いまでもリベラルアーツ全般は興味の対象ですが、そのきっかけはおそらくこの本だったのだろうと思っています。

もう一つが絵です。高校2年の前半までは一生懸命文章を書いていたのですが、

  • なかなか文章が上達するように感じられないこと
  • むやみに時間がかかること
  • 自分の発想がいまいち良いように思えなくなってきたこと

あたりを理由に、だんだん文章を書かなくなってきました。代わりに興味を持つようになったのが絵です。これはたまたま、同じクラスに美術部が3人いて、それ以外に趣味で絵を描いているのがほかに数名いて、どういう理由からか彼らを仲良くなったことが原因です。美大を目指すつもりはまったくありませんでしたが、彼らとつるんでいるうちに絵全般、マンガ、アニメにつよく興味をもつようになっていきました。マンガは小学校のころからよく眺めていましたがせいぜい少年ジャンプあたりが良いところで、そのほかにもマンガ雑誌があるなんて知りもしませんでした。サブカル的なものにも興味をもつようになったのがこのころからで、大学時代と大卒後しばらく、そちら方面につよく傾倒することになります。

時代背景に書いたように、ちょうどエヴァンゲリオンのような、これまでとは異なるタイプのアニメが作られるようになってきた時期でもあります。文化的な変化の大きかった時期であったともおもいますので、そうした時期にサブカル的なものに触れられたのも、良い経験だったのかなと今にして思います。

絵に興味をもつようになり、自分でも描くようになりましたが、高校の時期はまだまだアニメ的なものばかりでした。描き方もさっぱりわからないですし、上手な人たちは周りにいくらでもいたので、それでどうにかなるとは思っていませんでした。もちろん絵で食べていけたらいいかもな、とは思っていましたが、自分の絵のへたくそさ加減から、さすがにこりゃ無理だろうとも思ってはいました。高校時代はただ、趣味的に面白がって描いていただけです。それが大きく変化するのは大学になってからで、それはまた別の話になります。

大学受験

受験したのは東北大学文学部、前期日程のみの一発勝負。私大は学費が高すぎるし受験料そのものが高額なのでだめ、県外の大学も家計負担が大きすぎるのでだめ、なので、選択肢がほぼない状態でした。自分が県外の大学に行けないのは兄の予備校に金をかけすぎたからではないか、と両親に問うたことがあるのですが、不況の影響で家計が厳しく仕送りもできないからそもそも無理だった、という回答を得ました。確かにそうだな、とそのときは思ったのですが、いま思えばいかようにでもやり方はあったのじゃないか、それを知らなかっただけなのじゃないか、と思うこともあります。*8

実は、第一希望は東大でした。受かる自信もありました。しかし、上記の事情により断念せざるを得ない状況でした。今となってはどちらがよかったのかわかりません。

東北大の文系学部は、二次試験で数学が出る珍しい大学です。東大京大もたしか文系の二次試験でも数学が出ると聞いています。文系学部の二次試験で数学が出る場合、数学の良しあしでほぼ合否が決まります。国語と英語がほかに出るのですが、それらはできて当たり前のレベル。なので、自分のように数学やばい状態では、他がどれだけできてもうまくいかない可能性が高いです。*9そんなわけで、良い数学の参考書に出会えたのは本当によかったと思っています。

二次試験前期日程は二日間あり、一日目に国語と英語、二日目に数学です。自分のときの受験会場は青葉山の中腹にある某高校で、二日間とも雪でした。いつもかどうかわかりませんが、仙台市交通局が受験生のために臨時バスを運行します。県外から受験にやってくる学生も大勢いるためです。18歳そこそこでその後の人生が大きく左右されるイベント*10ですからね、皆真剣です。東北の人間からしたら東北大といえばエリート中のエリートですから。*11

もう24年前になりますね。ちょうど24年前の今頃の時期です。どんな気持ちで合格発表まで待ってたんだっけかな。。。

で、おかげさまで合格できたわけです。当時は氏名が張り出され、さらに地元テレビ局が東北大に関してだけは合格者氏名を読み上げる、さらに地元新聞紙上でも合格者氏名を掲載する、という個人情報だだもれな時代だったわけですが、そのおかげで盛り上がったり盛り下がったりしていたのも事実です。合格発表には同級生といきました。相当自信なさげだったのですが、合格者に自分の名前を見つけてぽかんとしていました。受かると思ってなかったんでしょうね。その後、合格した数名の同級生と学校に報告に行き、校内の公衆電話から家にも連絡。両親から親類縁者に情報が伝わっていきました。

東北大に合格したのは親類縁者で自分が初めてです。存在は知っていてもそこにいく人間がいるとは想像もつかない人たちです。そもそも大学進学自体、想像がつかない人も多いくらいです。親戚中とんでもない騒ぎになったそうです。合格した当人が若干ひくくらい。自分としてはもっと上までいきたかったんだけれども。。。

あー、もしかしたらこのときの「もっと上までいけたはず」の思いがしつこく残ってたからこそ、いま自分がこうあるのかもな、と思い至りました。

ちなみに、このとき両親は親戚中から賞賛されました。経済的に厳しいなかでも、自分たちが大卒でない状態であっても、子供二人を大学に、うち一人は東北大に行かせることができたということがすごい、と。たしかに子供たちが小さかったころは「勉強ばかりさせられてかわいそうだ」と思ったけれども、その結果これだけの大きなことを成し遂げたのだ、と。

前回書きましたが、子供の教育水準は親の教育水準と強く相関します。それはおそらく、親の「教育に対する理解」「子に教育を与える環境」の因子が強く、親の教育水準そのものが直接影響しているわけではないのでは?と思ったりもします。

大学合格後

家から決して近くはありませんが、頑張って自転車で通える距離でしたので特に引っ越しや一人暮らしは不要。なので準備といえばまず入学金を入れるところくらいなのですが、これはすごい騒ぎになった母方の実家からの援助でまかないました。後はたしか奨学金の手続きも入学前にし始めたような記憶があります(違うかも)。

で、この時期に両親から言われたことがあります。いわく、

ひとまず大学卒業まではここで面倒をみるが、卒業後は自分の行きたいところにいき、やりたいことをやるが良い。

たぶん、親としては、これから子供が自分たちにはもう手に負えないところにいくのだということを、感じ始めていたのだと思います。

高校時代の終わりと次回へのつなぎ

バブル崩壊後の景気後退期の真っただ中を高校生として過ごしました。親が想像もしなかったような進学校への進学、また大学合格と、不況で苦しい中でも、高い水準の教育を受けることができました。さらにこの後、大学での生活に移っていくわけなのですが、一方で、就職氷河期は着々と進行し、年々、有効求人倍率が低下していっている最中です。この時期、自分が会社員になることはこれっぽっちも考えていませんでしたから、数年後にとんでもない目に遭うなんてこと、思いも至っていませんでした。

*1:兄が高校に入学したとき、両親ともに学費の安さに若干引き気味だったと記憶しています。

*2:高校の修学旅行の積立金って、一般的にはたしか馬鹿にならない額なんですよね。

*3:当時はまだ男子校、女子高でした。いまではすべて共学化されています。

*4:実際にはほかにも細かい規則はありました。が、そこまで厳しく課せられたものではありませんでした。この校則が厳格に守られていたのは「下駄で校内を歩くと床が破損するから」という誰の目にも明らかな、プラクティカルな理由があったからです。

*5:単位の概念は大学に勤めていたときにみっちり叩き込まれたので、今でこそあーだこーだ言えますが、当時を振り返るとさっぱりだめでしたね。

*6:ある特定の国ないし地域に限定してそこでの通しの歴史のこと。

*7:今にして思えばとてももったいないですよね。。。

*8:奨学金と学費免除、学生寮を駆使すれば、家計負担をかなり減らせることを知ったのは大学に入ってから。

*9:ちなみに東大だと文系でも国語、英語、数学、理科、社会の5科目の試験があったはずです。なので東大を目指すのならばかなりしっかり対策しないといけないのです。

*10:決してそんなことはなく後からどうとでもなる、と今ならおもいますけれども。

*11:今現在、自分が置かれている環境から眺めると、実は東北大ってそこまで上の方ではないんですけれどもね。。。