【雑談】超就職氷河期男子が這い上がって幸せに暮らしている話~義務教育編~

妻とあれこれ話をしていて、自分のこれまでのこと、いま現在のこと、これからのことをよく考えるようになりました。

特に、いま現在このようにあることが、これまでの積み重ねーそれが必然であれ偶然であれーによるものであることを強く意識するようになってきました。自分自身が2000年卒の超就職氷河期にあたることもあって、様々思うところがあります。

おそらく、いま自分の周りにいる、観測できる範囲の同世代というのは、強烈な生存者バイアスがかかっており、おそらくかなり歪んだ認知になっているであろうと思っています。とはいえ、「自分がどうであったか」を語ることにも一定の意味があるだろうと考え、いまここに至っている経緯を、これまでの40年少々の人生を振り返りながら眺めてみようと思います。

途中まで書いて、かなり長くなりそうなので、2~3回に分けて書こうかと思います。今回は義務教育終了までです。

就職氷河期って何?

今の若い方にとって、超就職氷河期って「たまに聞くけれども都市伝説みたいなもの」であろうと想像します。いま社会に出ている20歳台前後の多くの方は、いわゆる「失われた20年」の後の景気回復時期にあたり、就職活動で苦労された経験が少ないであろうと思います。

2回の就職氷河期

就職氷河期と言われる時期は過去に2回ありました。

  1. 1993~2005年、バブル経済崩壊による就職氷河期
  2. 2010~2013年、リーマンショックによる就職氷河期

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その中でも、2000~2001年を就職氷河期と呼んでいます。

就職氷河期

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2000年3月卒の大学生の求人倍率が唯一1を割っています。この時期が就職氷河期です。大学生の求人倍率です、実際の有効求人倍率は6割前後と言われています。バブル経済崩壊後、企業がもっとも採用を絞った時期で、現在満年齢で42歳あたりの学部卒がもっともその影響を受けました。

そして、自分も2000年3月卒です。ちょうどどんぴしゃ、超就職氷河期の世代にあたります。

就職氷河期のなにがやばかったのか

有効求人倍率が低い、ということはそれだけ就職できる人が少なかった、ということです。

大卒でも求人倍率が1を割っているので、大学生一人当たりに求人が1つない、つまり就職できない人が確実に存在していた、という状況です。社会に出る最初の段階ですでにつまづいてしまうのです。自分の問題ではなく、社会的な状況によって。

特に日本の多くの企業は新卒を高く評価しますので、最初でつまづいてしまうとそのあとの復帰が難しくなってしまいます。同期でも就職時期を遅らせて有利に就職活動を進めるため、大学院に進学しようか考えている人もいました。就職を焦ってブラック企業につかまってしまい、心身ともに壊れてしまった人も多数います。

たまに「就職氷河期で就職できなかったのは自己責任」という論調を見ることがありますが、企業の採用方針は基本的に景気の影響をまともに受けるため、自己責任だけでどうこうできる問題ではありません。そこんところ、誤解なきよう。

いま現在の状況

というわけで前提知識が入ったところで、次の話に進みます。
これまでの経緯を書く前にまず、いま現在の状況をまとめておきます。

  • とあるIPO目前のベンチャー企業でデータサイエンス職(立ち位置的には専門管理職)についている
  • 勤務実態がややブラック気味だが、仕事は楽しいしやりがいもあるし、自分の志向に向いている
  • 内資系だが外国籍の従業員が多く、コミュニケーションの多くが英語で行われる
  • 一応英語でのコミュニケーションはできているが、込み入った話になるとちょっと辛い
  • バイリンガルは当たり前、トライリンガルも珍しくない、観測範囲で最大5か国語堪能という人も
  • 業務で関わる同僚の多くがPh.D持ち
  • 残念ながら最終学歴が学士なので、できればPh.Dを取りたい
  • 民間企業勤めの年収分布的には上の5%に入る、経済的に余裕あり
  • 前の会社の同僚とも関係継続中、けんか別れして転職したわけではない
  • 妻あり(専業)、子なし(予定なし)、小型犬1頭と同居
  • 都内ではないが首都圏在住、静かで便利できれいな街
  • あまり引っ越したくないが通勤時間が長いのが悩み

報道やブログやTwitterなどで見聞きする、超就職氷河期にあたってしまった人のいま現在のイメージはおおむね以下のようなネガティブなものと思います。

  • 年収が中央値よりも低く、非正規雇用もしくは無職である
  • 独身が多い、実家暮らしのケースも多々見られる
  • 社会に対して希望をもっていない、むしろ敵意すらもっている
  • 一部は「無敵の人」と化しつつある
  • メンタルやられている

自分のいま現在の状況は、これらのイメージとは大きくかけはなれているのじゃないかと思います。現実としてこういう人間もいるということです。

生まれ育ちの話

では、ここから、これまでの経緯を語ってみることにしましょう。

生まれた時期と場所と家庭環境

  • 1977年宮城県仙台市生まれ
  • 仙台市中心部からやや外れた田園地域の育ち
  • 自分含め、両親と兄一人の4人核家族
  • 両親は共働きで自営のラーメン屋
  • 世帯年収おおよそ400万円
  • 両親が教育に比較的熱心
  • 親戚から見るとその教育熱心さが分不相応に見えていたらしい
  • 親戚含め、近しい人に大学進学者なし
  • ほどほど勉強して市役所もしくは税理士会計士などの事務職に就くのが親の希望

貧困ではないものの、経済的には決して恵まれた環境ではありませんでした。

一方で、「財産は残せないが教育はできる」という考え方から、無尽蔵とはいえないまでも、教育にはお金を使う傾向にありましたし、進学にも理解がありました。「勉強ばかりさせられて子供たちがかわいそう」と親戚に言われていたそうですが、そんなのを気にしないくらいの芯の強さが両親にはあったようです。

両親の話

子供の成育には親の影響が非常に大きいので、ここで両親について少し補足しておきます。

宮城県北部の出身、終戦の5年後生まれで年が覚えやすい、というのが微妙な自慢です。

日本史と漢字が得意で、本も良く読みます。小中学校のころ、史跡や博物館によく連れて行ってもらいました。本をよく読むようになったのも父の影響です。

一方でギャンブルも好きです。*3主に麻雀、パチンコ、競馬、競艇をやりますが、一番はパチンコです。

父は中卒で働きに出ました。当時の中学の先生から高校進学を強く勧められたそうですが、どういう理由からか断ったそうです。理由はまだ不明です。中卒で仙台市内の某中華料理店に修行に入り、仲間と麻雀に明け暮れながら過ごしていたそうです。自分のお店をもったのが、父が30歳くらいの頃、ちょうど高度経済成長を過ぎてバブル経済に入ろうという頃です。そのころに自分が生まれています。

息子たちにはラーメン屋のような職人にはなってほしくない、商業高校を出て税理士か市役所職員になってほしい、という極めて現実的な路線を考えていたようです。

現在はお店をたたみ、別のところで調理師として働いています。

宮城県北部の沿岸部の出身です。父の1歳年上です。

母の両親は牡蠣とわかめの養殖で生計をたてていました。母の父(自分から見ると母方の祖父)は大変優秀で、水産高校を首席で卒業したそうです。また、書生さんを居候させるなどの世話好きで懐の広い人であったと聞いています。母はそろばんが得意で、商業高校を出て簿記の資格をとりました。高度経済成長期の集団就職で東京の百貨店に数年勤めたあと、東京が嫌になって実家に戻ってきたと聞いています。

父とはお見合い結婚でした。地域的にかなり距離があるのでどういう経緯で見合いに至ったのかはわかりません。ともかく、父がお店を出す数年前に結婚し、仙台市内で暮らすようになりました。

息子たちの将来に関しては父と同じ考え方で、税理士か市役所職員あたりが自分たちの息子としては十分な進路と思っていたようです。

お店をたたんでからはほぼ引きこもり状態ですが、ときおり父とちょいちょい外出しているようですし、父から勧められた本を読んだりなどしているようです。

義務教育時代の話

小学校時代(1984年~1990年)

環境

そんな家庭環境で送った小学校時代、ちょうど1980年代のバブル経済花盛りの頃です。”8時だよ、全員集合!”よりも”おれたちひょうきん族”の方が人気があった時期ですね。ビートたけしが出始めのお笑い芸人だった時期を知る人は、若い世代には少ないでしょう。

自分が通っていたのは地方の公立小学校です。だいたい想像がつくと思いますが、地方の公立小学校は年収階層も学力レベルも上から下まで、ごちゃまぜの状態です。びっくりするほどの金持ちも、びっくりするほどの貧乏もいました。今ほど支援学級が発達していなかったので、精神疾患を抱えた同級生もいました。

自分が育った家の周辺は戸建ての借家でした。戸建てといっても6畳が一部屋と4畳半が二部屋、灯油で沸かすタイプの風呂に汲み取り式トイレという、おそらく多くの人が想像できないようなタイプの家です。玄関はドアではなく戸で、一応鍵はかかりましたがねじ式のもので、あってないようなもの。にわか雨が降れば近所の人が洗濯物を取り込んでおいてくれるような、そういう距離感のご近所づきあいのある地域です。そんな地域の今自分が暮らしているマンションよりも狭いところに、家族四人で暮らしていました。*4

ご近所さんもだいたい同じくらいの社会階層であったと想像します。会社勤めよりも自営業の方が多かったと記憶しています。うちはラーメン屋でしたが、土木作業員が多かったのじゃないかな。ご近所の方に立て付けを直してもらったりなんてしていた記憶があります。

その地域から少し離れると、土地持ちの家が複数ありました。土地持ちといっても農家です。広大な田んぼをもっていて、そこからの農業収入で暮らしている感じの人たち。彼らは猛烈な金持ちで、不自由のない生活をしていたようです。

別の区画には会社員家庭の戸建てが集まっている箇所がありました。自分が小学校あたりの時期ですとバブルが始まったころなので、土地もそんなに高くなかったし、経済が上り調子だったので戸建てを買う人が多かったのでしょう。友人の家に遊びにいくと、自分の家とのあまりの違いになんともいえない気持ちになったのを覚えています。

自分の育った区域は仙台駅からバスで30分程度、自転車でも30分程度のところです。交通の便が悪いので仙台駅周辺の都市部にいくことは小学校の時期はめったにありませんでした。記憶している範囲で、小学校6年間のうち数回です。なので、小学生の自分が知っている範囲は非常に狭かったと、今なら言えますが、当時はそんなに広い世界が自分の住んでいる周囲に広がっているとはこれっぽっちも思っていませんでした。

時代背景

日本のバブル景気が1986年~1991年ですので、好景気の時期と自分の小学校の時期がかぶっています。テレビから見える日本の景色はきらきらしていて、希望に満ちていて、将来もっと良くなっていって、悪いことがほとんどないようでした。自分も将来、こんな風になれるんだろうと漠然と思っていました。

自分の小学校時代はファミコンの発売時期1983年ともかぶっています。日本中がファミコンに夢中になったと記憶しています。自分もご多分にもれずファミコン少年でした。友人とソフトの貸し借りもよくしていましたし、それにまつわるトラブルもあありました。

小学校6年生の時に昭和がおわり平成が始まりました。昭和は63年とちょっとと非常に長い時代で、おもえば第二次世界大戦も昭和に発生したのでした。その昭和が終わり、元号が新しくなる、という日本にとっては大きな節目の時期でもあったと思います。

世界情勢としては東西冷戦の終わりの時期にあたり、1991年のソ連崩壊にいたる、世界的なパワーバランスの変化の時期でした。ソ連という国があったことを歴史の教科書でしか知らない人も増えてきていると思いますが、東西冷戦の構造の崩壊は世界にとって本当に大きな変化であったと思っています。また、ベルリンの壁崩壊(1989年)もこの時期です。

このように、自分が小学校時代を過ごした時期は、日本にとっても世界にとっても、大きな変化の時期でした。

当時の性格

とても引っ込み思案な子供であったと記憶しています。小学校入学して数日、同級生の男子たちはすでに仲良くなって放課後に野球なりサッカーなりをやっていたのですが、自分はそれを遠巻きに眺めるばかりでした。自分からその輪に入っていくのがあまり得意ではなかったのだと思います。
ある日、ただ同級生たちが遊んでいるのを座って眺めているところに、担任の先生がやってきました。なぜ皆と遊ばないのか尋ねられましたが、何と答えたのかは覚えていません。なんにせよ、それに気づいた同級生がよってきてサッカーにまぜてもらったのでした。ちなみにそのときサッカーに誘ってくれた同級生は中学→高校→大学まで同じ学校という奇遇です。

その後、彼らと遊ぶ日々を重ねることで、どちらかというと皆の中心に自然といるようになりました。リーダーというほど大げさなものではないのですが、中心人物的な位置づけ、学級委員とかそういう感じの位置づけに、次第になっていきました。

関連するエピソードが幼稚園の頃にあります。
整列するとき、通常は身長の低い順に並びます。当時、自分は真ん中くらいのはずなのですが、なぜか一番前にいつも立たされていました。当時は理由がわからなかったのですが、のちにその幼稚園で働いていた叔母の言うところでは「あんたが前に立つとなぜかみんなついてくるから一番前に立たせるようになった」とのこと。

今でもあまり前に立つのは好きではありませんし、できればリーダー的なポジションは避けて生きていきたいと思っています。だってめんどくさいもの。ですが、一部の人はリーダー気質があるとみなしているようです。勝手な話です。

勉強について

すでに述べたように、息子たちには高卒→公務員コースを歩んでほしいと願っていた両親でしたが、大きな誤算がありました。両親が想像していた以上に勉強ができたのです。両親がそう感じ始めたのがだいたい小学校3年生くらいのころだったと思います。ただ、小学校時点ではまだまだ先のことはわかりませんし、この段階ではまだ「ちょっと思っていたのと違う」レベルだったのだと想像します。

加えて、近親者に大学進学者がいなかったものですから、高校を卒業して大学に進む、というのがどういうことなのか想像できなかったのもあったと思います。ただ、だからといって「勉強なんかやめてしまえ」とならなかったところが、うちの両親のすごいところだったと今では思います。

両親の学歴が低い場合、子供の勉強をあまり強く勧めない場合が多いといいます。それが貧困の再生産につながっているのだと。うちの両親の場合はそこがなかったため、今の自分の境遇があるのだと思っています。

小学校のころは両親に勉強を見てもらっていました。共働きだったためそんなに長時間ではありませんでしたが、割と熱心にみてもらった記憶があります。主に歴史と漢字は父が、算数は母が見てくれました。理科に関しては両親ともにあまり得意ではなかったため、学研の科学だったかな?をとって与えられていました。科学読み物的な本も大好きでしたので、毎月楽しみにしていました。

多くの場合、子供は勉強を嫌がると聞きますが、自分は記憶している範囲では勉強が嫌いではありませんでした。好きでもありませんが「苦にならない」状態です。今にして思えばこれって非常に大きなアドバンテージです。多くの人が嫌がることを、自分は苦にならずにできる。つい最近まで「多くの人にとって勉強は苦にならないものだ」と思っていましたが、どうやらそうではないことがだんだんわかってきました。この特質が、のちに大きく効いてきたのかな、と思っています。

将来の夢

あまり言っていないのですが、小学校高学年のころから、小説家になりたいと思い始めていました。小学校の卒業文集にはなぜか「弁護士」と書きましたが*5、ぼんやりと小説を書きたい、物語を書きたい、と思うようになっていました。おそらく、父の影響でたくさん本を読んだことに起因したのだと思っています。小学生がかける文章なんてたかが知れているのですが、そうやってだんだん、創作活動に強い興味をもつようになっていきました。

中学校時代(1990年~1993年)

環境

中学に上がると、周囲の環境が大きく変わりました。というのも、周囲3つの小学校から、ひとつの中学校に入ってくるためです。小学校と同様公立の中学校でしたから、さらに年収階層、学力レベルの幅が広いカオスな状況が生まれました。

とはいえ、自分の上の学年ほど荒れた学年ではありませんでした。確かにタバコを吸って停学になったり、中学生で妊娠したり、といったことはありました。しかし、窓ガラスをバットで割って回っただの、教師をリンチしただの、原付で校内を爆走しただの、といった話はありませんでした。今の環境からすると何とも言えない気持ちになってきますが、いわゆる「荒れた学校」ではなかったと思います。

家庭環境も変わりました。自分が中学に上がると同時に兄は高校に進学しました。仙台市内の進学校です。兄も勉強のできる人でしたから、自分に対してと同じように、両親は進学校に進むことを許容したのです。また、この時期にお店の土地を買っています。バブル経済の中でも崩壊が数年後に迫った、おそらくもっとも土地の高かった時期です。いま思えば大失敗だったのですが、銀行屋のセールスに乗せられて*6うっかり買ってしまったのです。土地のローンの返済のため、母はこの時期からパートに出るようになりました。パートをおおよそ30年近く勤めあげ、そのコネでお店をたたんだ後の父の再就職先まで決めてしまった母の強烈な忍耐力にはいまでも頭が下がる思いです。

このころからうちの家計的にやや厳しい時期が始まります。それでも、教育にかけるお金は減らそうとしませんでした。もちろん、私立の高校や大学に行かせられるほどの余裕はありませんでしたが、なんとか工夫して可能な限り最良の教育を与えられるよう、あれこれ考え工面してくれました。自分の生まれは経済的には決して恵まれた環境ではなかったけれども、「両親の教育に対する理解」という別の面での恵まれた環境にあったのだといえます。

時代背景

自分の中学校時代は日本のバブル景気の末期にあたります。バブル崩壊は1991年ですが、好景気自体は1992年まで維持されていたためです。ジュリアナ東京もこのころですね。よくテレビで見かけました。自分もこういう世界にいつか入っていくことになるのだろうか、そういうイメージがいまいちわかないな、という感じの微妙な思いで眺めていた記憶があります。

自分が中学に上がったのがまさに平成元年平成2年*7です。バブル崩壊改元と、大きな節目イベントがあった時期です。

俗なところでいうと、1990年代に入り、ノストラダムスの大予言でいうところの1999年が近づいてきており、微妙に盛り上がり始めた時期でもあります。そういえばツインピークスの放送が始まったのもこの時期ですね。

スーパーファミコンが発売されたのが1990年でした。が、中学になると高校受験が視野に入ってくるため、自分の周囲でスーパーファミコンをもっていた層は意外に限定されていた記憶があります。自分もスーパーファミコンは買いませんでした。

世界情勢的にはベルリンの壁崩壊に続く東西ドイツの統一が1990年に実現しました。1991年にはソ連で様々な改革を行ったゴルバチョフが辞任し、ソ連崩壊へとつながっていきます。また、同じ1991年にはイラクvsアメリカを中心とした多国籍軍湾岸戦争が勃発しています。冷戦構造の崩壊後、アメリカがソ連という大きな敵国を失い、中東の戦争に手を出し始めた時期です。戦後の世界構造が変化し始めた時期ですね。

両親の思惑から外れる

中学に上がると、学力差が明確に表れてきます。また、就職か高校受験か、受験ならどのレベルの高校か、の選択を迫られます。すでに述べたように、両親は商業高校に進学して何らかの資格をとり、税理士、会計士、役所の職員あたりを狙うのが順当と思っていました。しかし、最初の中間試験、続く期末試験と上位2,3を争う位置につけているのを目にして、「ちょっと思っていたのと違う」では済まなくなってきました。

当時の担任教師からも、中学1年の時期から進学校の受験を強く勧められたそうです。進学校の次は大学受験と続いていきます。この時点で、自分たちの息子が自分たちの思惑から大きく外れていること、おそらく自分たちとはかけ離れた世界にいくのだろう、ということを想像し始めたのだと思います。

この状況を担任から告げられ、「あれなんだべ」*8と困惑したそうです。ですが、その状況を受け入れ、勉強をやるなとか進学なんか許さん、とならなかったあたり、うちの両親は懐がひろかったのでしょう。

部活と勉強

部活は陸上部でした。短距離をやっていましたが、予選を通過したことは一度もありません。400mリレーで一度だけ県大会まで進んだことがありますが、それは自分のおかげではなく、他に速い人たちがいたからです。ただ、陸上部でよかったのは、野球やサッカーのようにむやみに上下関係が厳しくなく、練習もゆるゆるで勉強に励むことができた点です。同じ学年で陸上部は5人いましたが、自分含め3人は同じ進学校に進みました。

勉強に関してはかなり一生懸命やったと思います。歴史と漢字は父が、数学の最初の方は母がまだ少しみてくれましたが、だんだんついてこれなくなってきているのが見え始めていました。また、英語に関しては両親ともにだめでした。やはり自分でどうにかするしかなかろう、と部活が適当なのを良いことにせっせと勉強していました。

おかげさまで3年間上位をキープし、公立の進学校に合格しました。*9

学校内での人間関係

中学に上がるといじめの問題が発生してきます。ありました、いじめ。しかも結構暴力的なやつ。

でも、自分は対象にはなりませんでした。というのも、いじめのリーダー格的な男子に守ってもらったからです。

中学2年の半ばくらいのころ、同じクラスに体のでかい、ややこわもての男子がいました。いじめのリーダー格です。特に仲がいいわけでも、親しく話をする間柄でもありませんでした。なぜ彼が自分に目をつけたのか不明なのですが、ある日とつぜん相談をもちかけられます。いわく、

自分にはどうしても行きたい高校がある。しかし、現状の成績ではどうやら難しそうだ。そこで、お前に勉強を教えてもらいたい。その代わり、お前が余計なやつらに目を付けられないようにする。

今思えば、なんて前時代的な話なんでしょうか。とはいえ、こちらは快適に学校生活を送れるのであれば何ら問題ありません。快く承諾し、高校受験までの1年少々、放課後不定期に彼に勉強を教え始めたのでした。最終的に結果は合格、その後一度だけ会ったことがありますが、大学まで進んで楽しくやっているようでした。

こんな事情もあって、それほど嫌な思いもせず、中学とはおさらばできました。

生徒会長立候補を断る

中学2年の末ごろ、当時の担任から「生徒会長選挙に立候補せよ」と指令が下りました。断固拒否しました。

中学校では、「部活で活躍する」か「定期試験で常に上位にいる」が目立つための方法になります。すでに述べたように部活での活躍は絶望的に無理でしたが、幸い勉強の方はできたので、それなりに目立つ位置づけだったのだと思います。そこそこ勉強のできる人間は生徒会長になるべし、というのがあったようで、目をつけられたのでしょう。

小学校編で書いたように、リーダー的なポジションはお断りです。二度目になりますが、めんどくさいもの。なに勝手にそんな役割を押し付けてくんのさ。そういうのやめてよね。という気持ちでいっぱいなわけです。なので断固拒否です。3回くらい呼ばれました。そのたびに断りました。おかげさまをもちまして、中学校では地味ポジションを最後まで死守したのであります。

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創作活動と将来の夢

すでに述べたように、小学校高学年になってから創作活動に興味をもつようになりました。中学に入ってからもそれは継続していて、小説というか、物語というか、を書き始めるようになりました。どんなものを書いたのかもうほとんど覚えていません。けれど、このころから、小説家になりたいという思いはかなり強くなってきていました。

とはいえ、どうやったら小説家になれるのか、なんてだれも教えてくれませんし、どこかに書いてあるようなものでもありません。ただただ憧ればかりが強くなり、様々な雑誌や本を読み漁る日々に突入していきます。

義務教育の終わりと次回へのつなぎ

というような感じで、バブル経済と世界秩序の再編成のただなかで過ごした義務教育時代。両親の思惑とは異なって進学校へ進むことになったわけです。超就職氷河期まで残り8年、次回「高等教育編」で高校、大学がどんなであったかを書いてみたいと思います。

にしても、自分の大学生時代がすでに20年以上前だという事実に驚愕の念を隠し切れません。もうそんなに時間が経ったのだな、としみじみ感じています。

*1:就職氷河期というと両方合わせて言うことが多いですが、状況がかなり異なるため、まとめて論じるのには乱暴なように感じています。

*2:就職氷河期のピークはいつ!?就職率低下の原因と就職氷河期世代が辛酸をなめ続ける今の実態から転載しました

*3:一定以上の教育水準のある学生の親はあまりギャンブルをしない傾向があるそうです。大学のときの指導教官に自分の父がギャンブルをやることを知ってびっくりしていました。

*4:ごく一時期だけ、母の妹が同居しており、最大5人だった頃もあります。

*5:よくある、周囲の期待に応える優等生のふるまいだったと思います。

*6:当時は土地も株も青天井で上がると信じられていました

*7:計算間違っていました。中学入学は平成2年でしたね。。。

*8:仙台の方言。「あらあら、なんてことでしょう」の意。

*9:首都圏では考えられないことですが、仙台市ではトップ進学校が公立なんです。

*10:しかし、この後、「あなた目立つから」という言葉をなんども耳にすることになろうとは、思いもよらなかったのでした。